軽く見られる哀しさ
鍼灸だって漢方なんだ!
今、私は隔週の土日に漢方薬の勉強に行っています。
そこでこんなことがありました。
休み時間の間に、後ろに座っていたクラスメートに、
「ねぇねぇ、頭が疲れているときに圧すといいツボってある?」と尋ねられました。
わたしはその質問に対して、
「いや、そんなワンタッチで効くツボなんてないですよ~。そういうときでも弁証することが大切です。どうして頭が疲れているのか、脈診などちゃんと弁証して決めないと~」と答えました。
ちなみに弁証とは、脈診や舌診、問診などを通して、その症状がどうして起きているかを観察し、その情報を東洋医学の方法論でまとめた施術方針のことを言います。この弁証というのが漢方(鍼灸と漢方薬)の世界ではとても大切で、これがそれぞれの先生の腕の見せどころということになります。
するとクラスメートは、
「え、そんなのでも弁証が必要なの!?」と驚かれました。
いやいや、必要ですよ・・・弁証。
だって、鍼灸だって漢方なんだから・・・。
弁証は必要です・・・はい。
ここで漢方薬を学び始めて早1年半。
東洋医学にとって弁証がいかに大事であるかは骨身にしみているはず。
と、わたしは言いたかったのですが、そこまでいう必要もないと思いましたので、「え、そうですよ~。そんなの決まってるわけないじゃないですか~。」と軽く伝えておきました。
私が通っている学校は、誰でも入れる学校です。
もちろん漢方薬を学び、そして資格を取りに行くための学校ですから、それなりに覚悟をもった人や、少なくとも東洋医学に興味を持っている人が来ている場所。私のようにプロの鍼灸師さんや、漢方薬を学びに来たお医者さんもいたりします。
私が質問を受けた方も薬剤師さんで、これまで漢方の講座には足繁く通っている勉強熱心な方。
にもかかわらず、こういうお話しをするとは・・・。
私は心の中で、もっと鍼灸をメジャーなものに持ち上げないといけないと誓いました。
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弁証は建て前なのか!?
その学校に通っていると、休み時間によく見る光景が、生徒が先生に、「身近な人でこんな人がいるんですけど、どんな薬が合いますか?」というのを質問しているもの。
漢方薬や鍼灸をするときに重要なのは、患者さんが訴える症状や、患者さんが醸し出す雰囲気、脈診、舌診と言った診察するポイントを集め、それを分析すること。これがつまり、上述した弁証です。
ということは、「こんな人がいるんですけど・・・」と先生にいくら質問をしてみても、目の前にその患者さんはいないわけですから、弁証などできるはずがありません。仮にその生徒が告げる内容に、いくつかの弁証のヒントになる情報が入っていたとしても、その生徒はまだプロではありませんから、先生に伝えている情報が必ずしも性格とは言えません。伝言ゲームのように、先生のところに伝える時点で、伝えるべき情報が間違っていることだって大いにあり得ます。
先生はとても温厚でいい方なので、苦慮しながらも一応のところ漢方薬の名前をアドバイスしています。もちろんベテランの先生ですから、これまでの経験からある程度の予測はできるでしょう。しかしやはり患者さんが目の前にいるわけではないのですから、先生も、本音は困っているはずです。
でも、困っていながらも処方をアドバイスできるというのはどういうことなんだろう?
また、そんな重大なことを休み時間にさらっと聞きに行く生徒ってなんだろう?
これって、弁証というものが建て前になっていて、形骸化しているのではないのか?という気がしないでもありません。
“風邪のときは葛根湯”と、バカの一つ覚えのように葛根湯を処方するお医者さんがいるそうですが、これはもっての外です。
こういうのは弁証ではありません。
漢方の処方ではありません。
鍼灸にも弁証が必要
ということで、どのツボを使うのか?というのは、鍼灸にとってはそれが弁証です。
弁証は、ツボという最適解を見つけるまでの思考過程。
それを抜きにしては鍼灸は成り立ちません。
ふだん何気に鍼をし、つぶを貼っているように見えるかもしれませんが、そこには弁証という作業があります。
単純に“この症状にはこのツボ”ということではなく、患者さん一人一人の身体を診せていただき、体や心のあり方を観察しながらツボという最適解を見出す。こういう作業の連続が、鍼灸だと私は考えています。
時に軽く見られる鍼灸・・・哀しい・・・。
でも、そうならないために、勉強、練習、臨床の反復です。