第二回 昨日の非は恨悔すべからず――杉田玄白『養生七不可』を読む
この回の記事の要点
昨日非不可恨悔:昨日のことは後悔しないように
原文
昨日非不可恨悔(昨日の非は恨悔すべからず)
きのふは過ぬ。仮令少の過にても改めがたきは、勿論なり。しかるに一度思はざるの不幸に逢ひ、志をうしなふこと出来て、己が意にまかせざることあれば、心中に粘着し、少時も忘れ得ずくりかへし、はてなく恨み悔る人あり。かくのごときものは気必凝滞す。是蒙昧より天寿を損の一つとなるなり。
現代語意訳
昨日の過ちは後悔してもはじまらない
昨日はもう過ぎ去っているものだ。だから、たとえ小さな失敗があったとしても、もはやそこに戻って過去の出来事そのものを変えることはできないものである。だから、昨日起きてしまった失敗や不幸を嘆いてばかりではいけない。
思いがけない不幸に一度でも遭うと、それだけで志までをも失うってしまう人がいる。
また、自分の思うようにならないことがあると、その出来事がいつまで経っても心にこびりつき、執着し、片時も忘れられず、何度も思い返していつまでも恨み悔やむ人もいる。
このようなことでは、気が必ず滞る。
これは、無知蒙昧といって、物事の道理をわきまえないことによるものであり、天寿を損なう一因となるから気をつけなければならない。
語句解説
- 昨日の非
「昨日」は過ぎ去った時間、「非」は過ちや、よくなかったことを指します。ここでは、過去に起きたことはもう元に戻せない、という時間の性質が前提にあります。 - 恨悔
恨み、悔やむことです。玄白は、ひととき反省することよりも、出来事を何度も思い返し、終わりなく恨み悔やむ心の状態を問題にしています。 - 心中に粘着し
出来事が心に貼りついて離れない、という表現です。思いがけない不幸や、志を失うほどの経験が、人の心に深く残ることを描いています。 - 気必凝滞す
「気が必ずこり固まり、滞る」という意味です。気の動きを心身の働きと結びつけて捉える、玄白の時代の医学・身体観が表れています。現代医学の診断名や生理学的説明と同じものとして扱う言葉ではありません。 - 蒙昧
「無知蒙昧」の「蒙昧」のこと。物事の道理に暗く、見通しを失っている状態です。玄白は、悔恨にとらわれ続けることを、養生の道理を見失うことと結びつけています。
反省することと、悔いにとらわれ続けること
玄白がここで戒めているのは、過ちを振り返ることそのもではないと思います。
人生に失敗はつきものであり、“失敗は成功の元”と言われるように、失敗を糧に成長することはよくあることです。過ちから学び、改められることを改める、そういう姿勢はとても大切なことではないでしょうか。
玄白自身にとっても、『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、『解体新書』を世に刊行するまで、その翻訳事業は試行錯誤の連続で、かず多くの失敗を経験したに違いありません。
玄白がここで伝えたかったことは、すでに変えることのできない過去に心を縛られ、同じ悔いを何度も抱え直していると、今日の自分に向ける力まで削られてしまうということではないでしょうか。
そして本文は、小さな過ち(失敗)だけでなく、「思いがけない不幸」や「自分の望み通りにいかないこと」にも言及しています。
失敗をして志を失うとか、自分の望むようにいかなくなったときの苦しみは、とかく心に刻み込まれやすく、そこに執着してしまいがちです。しかし、そこに拘泥していては、決して前に進むことはできません。
そしてその状態のことを、玄白は、「気必凝滞す」と表しています。
こうなってしまうと、気血の流れが円滑に行きませんので、当然ながら健康を害することにもつながっていくわけです。
『養生七不可』の第一に挙げられたこの言葉を、「いつまでも悩むのは本人の心がけが悪い」と読むのは適切ではありません。これは悲しみや悔いを抱える人を責めるための言葉ではなく、心が過去にとどまり続けることで、今の暮らしまで狭まっていないかを見つめるものではないでしょうか。
昨日の過ちは昨日まで。未来へ目を向けていこう、という玄白からの明快なメッセージとして受け取りたいところです。
心のとらわれを、身体全体から見る
東洋医学では、古来より今日まで、心と身体を別々のものとして切り離さず、互いに関わりながら働くものとして見ています。玄白の「気必凝滞す」にも、心にこだわりが生じると、気の動きにも滞りが生じるという当時の理解が示されています。蘭学と西洋医学の第一人者である杉田玄白も、『解体新書』を著すまでは、医家として東洋医学を学んでいたわけですから、こういう東洋医学の理論もしっかり修めていて、それを治療方針にしていたことを垣間見ることができます。心の状態を身体から切り離さずに捉えようとする見方、それが玄白にも息づいていたわけで、『養生七不可』を記した晩年も、そこに病の原因を見出していたのでしょう。
源保堂鍼灸院では、脉や腹などを含め、身体の一部分だけではなく全体のつながりを大切にしています。その視点からこの一条を読むと、悔いや悲しみを「忘れなさい」と急かすのではなく、その思いを抱えながらも、今の身体や暮らしに少しずつ目を戻していくことが大切に思えます。
養生は、心を無理に押さえつけることでも、いつまでも悔やむ自分を責めることでもありません。自分が過去にとどまり続けていないかに気づき、今日の自分へ戻る道を探すことでもあります。
まとめ
振り返ることで次に活かせることがあるなら、そこには意味があります。必要な謝罪や修正があるなら、できる範囲で向き合うことも大切です。そのうえで、すでに変えられない出来事を何度も自分に突きつけていると気づいたときには、いったん目の前の生活へ戻ってみる。食事をとる、休む、誰かと言葉を交わす。大きな決意でなくても、今日の自分にできることを一つ確かめるところから始められます。
玄白の教えは、誰もがすぐに過去を手放せるという話ではありません。悔いが残る時間も、立ち止まる時間もあります。それでも、過ぎたことだけに心を預けず、現在の自分の身体と暮らしに目を向け直す。その小さな動きが、玄白のいう養生につながるのではないでしょうか。
「昨日の非は恨悔すべからず」は、反省をやめよ、悲しみを忘れよという教えではありません。過去から学ぶことと、変えられない過去に心を縛られ続けることを分け、今日の自分の身体や暮らしへ目を戻していく。源保堂鍼灸院の視点からは、そのように心身全体の動きを見直すための言葉として受け取ることができます。
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In the first principle of Yōjō Shichifuka, Sugita Genpaku advises us not to remain consumed by regret over what has already passed. He does not suggest that we should ignore our mistakes or stop reflecting on them. Rather, he asks us to distinguish between what can still be changed and what cannot. When regret keeps returning to the mind and becomes difficult to set aside, it may weigh on both our thoughts and our daily lives.
From the perspective of traditional East Asian medicine, the mind and body are closely connected. Genpaku’s words remind us that caring for our health also involves noticing how we carry difficult feelings. We do not need to force ourselves to forget the past. We can acknowledge what happened, learn what we can from it, and gently bring our attention back to the life we are living today.
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源保堂鍼灸院・院長
瀬戸郁保 Ikuyasu Seto
鍼灸師・登録販売者・国際中医師
東洋遊人会・会長/日本中医会・会長/東洋脉診の会・会長
東洋医学・中医学にはよりよく生活するための多くの智慧があります。東洋医学・中医学をもっと多くの方に身近に感じてもらいたい、明るく楽しい毎日を送ってほしいと願っております。
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